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ジェロム・レ・バンナとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェロム・レ・バンナ、ジェローム・ル・バンネル(Jérôme Le Banner、1972年12月26日 - )は、フランス出身のキックボクサー。K-1出場選手。身長190cm。血液型A型。右利き。
K-1やキックボクシングの試合で活躍する一方、プロボクシングや総合格闘技にも挑戦している。2001年12月31日「INOKI BOM-BA-YE 2001」においてプロレスラー・安田忠夫と対戦するが、ギロチンチョークで一本負け。2005年3月26日、「HERO'S」で柔道家の秋山成勲を膝蹴りでKOし、総合初勝利を挙げた。
ファイトスタイルや強面の顔、発言から「K-1の番長」と呼ばれている。本人は番長と呼ばれる事を気に入っているようだ。公式のニックネームは「ジェロニモ」である。
1972年12月26日、フランス、セーヌ=マリティーム県にあるル・アーヴルという港町でプロボクシングの元ヘビー級フランス国内王者だった父親の元に生まれた。6歳から14歳の間、柔道を学んだ。キックボクシングに転向後はISKAフランスヘビー級王座を獲得。K-1参戦前に南アフリカで行われたISKAインターコンチネンタル王座戦でマイク・ベルナルドと対戦、判定3-0で勝利し同王座を獲得。
1993年、「K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦」に出場。タイのノックウィー・デービーを5R判定で下し、決勝トーナメント進出を決める。
1995年5月4日、「K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦」に出場。準々決勝で佐竹雅昭に左フックで3R2:32KO勝ちし、準決勝でマイク・ベルナルドに右ローキックで2R3:05KO勝ちするが、決勝戦でピーター・アーツに右ボディストレートを喰らい1R1:37KO負け、準優勝に終わった。
1998年から1999年にかけて、一旦K-1を離れてボクシングに専念。このときの戦績は、4戦4勝3KO(ただし4戦とも、対戦相手は一度も勝利した記録がないか、大きく負け越している選手)。また同年にアメリカ・アトランタで、ドン・キング主催のボクシング興行でイベンダー・ホリフィールド対ボーハン・ ビーンの試合が行われたが、前座のキックボクシングマッチで、ブラジルのエスペディト・ダ・シウバ(Espedito DA SILVA)と対戦した。ハイキックで1RKO勝ちし、WKNムエタイ世界スーパーヘビー級王者になった。この王座の防衛戦は、2005年4月30日までの7年間一度も行われなかった。
- 1999年10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦に参戦。約1年振りにK-1に戻る。大英帝国の不沈艦とあだ名されたマット・スケルトンを、1R右フックで勝利し、決勝大会へと駒を進めた。12月のK-1 GRAND PRIX '99 決勝戦で、ピーター・アーツを左フック1発で破るも、準決勝でアーネスト・ホーストに2RKO負け。この大会で一躍、人気選手に躍り出る。
- 2000年4月23日、K-1 THE MILLENNIUMでフランシスコ・フィリォと対戦。フィリォは1999年の極真世界大会優勝という実績をひっさげての凱旋試合。「一撃」が代名詞のフィリォを、逆に左ストレート一撃でノックアウトした。
- 同年7月30日、K-1 WORLD GP 2000 in NAGOYAで優勝を果たし、東京ドームの決勝トーナメントへの出場権を獲得。しかし、体調不良により、直前になって無念の欠場。
- 2001年3月17日、K-1 GLADIATORS 2001でマイク・ベルナルドと対戦。バンナ攻勢のまま1Rが終了するかに思われたその瞬間、ベルナルドの体を入れ替えての左右のフックがバンナの顔面に直撃。そのままバンナは大の字にマットに沈んだ。しかし、バンナ陣営から抗議が出る。検証の結果、ダウンする数秒前にゴングがなっていたことに加えて、観客の歓声でゴングの音がかき消され、ベルナルドとレフェリーには聞こえていなかった。故にノーコンテスト(無効試合)となる。
- 同年4月29日、K-1 WORLD GP 2001 in OSAKAのトーナメントで、全試合1RKOという圧倒的な強さで東京ドームへの切符を手にする。
- 12月の決勝トーナメントで優勝候補と目されていたが、準々決勝でマーク・ハントに2RKO負け。
- 2002年、パリ大会で前年度K-1王者のマーク・ハントと再戦。ハントに初めてのKO負け(TKO)を体験させる。12月のWORLD GP決勝大会準決勝でハントとまたしても再戦。前回とは変わり、キックを主体としたインサイドワークで圧勝し、高度なキックボクサーとして完成した姿を見せた。直後の決勝戦でアーネスト・ホーストのミドルキックを受けて左腕を粉砕骨折。骨折後、以前の豪快な左ストレートは鳴りを潜め、多用していたワン・ツーが殆ど見られなくなった。全体的に連打を含めた左腕での攻撃が減るなど、粉砕骨折の影響は大きい。
- 2003年、パリ大会で復帰、ヴィタリ・オフラメンコと対戦、2RKO勝利。K-1 JAPAN GPのワンマッチでシャカ・ズール(オズボーン・マシマ)と対戦、2RKO勝利。2003年開幕戦で当初はフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタとの対戦が予定されていたが、練習中に左腕に埋まっている金属プレートがずれた為、緊急手術し以後再び長期欠場。原因はジャン=クロード・ヴァンダムがジムに来訪した為、練習に力が入りすぎた、との事。
- 2004年、韓国大会で当初はマリアーノというメキシコ人キックボクサーとの対戦が予定されていたが、対戦相手は急遽テレンス・リーズビィ(総合格闘技29戦28勝1分け無敗などと経歴を捏造していたが、事実はUPWというプロレス団体のプロレスラー[1]。)に変更された。結果は1RKO勝利。開幕戦でフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタと対戦、ダウンを奪われるも判定でドロー。しかし戦意を喪失しTKO負け。WORLD GP決勝大会で天田ヒロミと対戦、2RKO勝利。大晦日に行われたK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!でボブ・サップとMIXルールで対戦し引き分け。
- 2005年、HERO'Sで秋山成勲と対戦。1RKO勝利。同年K-1パリ大会で因縁の相手シリル・アビディと対戦。顔面を腫らしながらも5RTKO勝利。WORLD GP開幕戦でゲーリー・グッドリッジと対戦。1RKO勝利。決勝大会でピーター・アーツと対戦。延長ラウンド判定負け。
- 2006年5月のオランダ大会でレミー・ボンヤスキーと対戦、判定は0-2でボンヤスキーを支持。この結果に、バンナ陣営から抗議が申し立てられた。ジャッジの国籍が3人ともボンヤスキーと同じオランダ人だったこともあり、判定の結果は日本で再審議され、6月30日に正式に結果が出された。日本人6名、アメリカ人2名で構成された検証審判員によるビデオ検証の結果、3-0でバンナの判定勝利に変更された。同年9月の開幕戦ではチェ・ホンマンと対戦。結果は延長1Rでバンナが判定勝利。また、この時は試合当日に日本に到着するなど、異例の事態となった。決勝大会の準々決勝では自らセーム・シュルトを対戦相手に指名するも、3R判定負け。
- 2007年の緒戦となった横浜大会において、22歳の新星澤屋敷純一と対戦するが、リングを回りながらのカウンターパンチにより1R・3Rと2回のダウンを喫し3R判定負け。K-1ルールによる日本人選手との対戦で初めての敗戦となってしまった。
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