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ヴァンダレイ・シウバとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァンダレイ・セザール・ダ・シウバ(Wanderlei César da Silva、1976年7月3日 - )は、ブラジル出身の総合格闘家。元シュートボクセ・アカデミー所属。ニックネームは戦慄の膝小僧。参戦当初は「ヴァンダレイ・ダ・シウバ」と紹介されていた。初代PRIDEミドル級王者。
ムエタイを主体としたファイトスタイルから繰り出される膝蹴りは驚異的で、「戦慄の膝小僧」の異名を持つ。ガイ・メッツァー、ダン・ヘンダーソン、クイントン・"ランペイジ"・ジャクソンなどの強豪を打ち破り、2002年の対ミルコ・クロコップ戦ではスタンド力に勝るミルコと互角に打ち合い、時間切れ引き分けで終わった。常にアグレッシブに攻める姿勢は、数多くの名勝負を作ってきている。
PRIDE初参戦から、2004年12月31日のPRIDE男祭りでヘビー級のマーク・ハントに判定負けするまでPRIDE無敗を誇り、無敗時代には「ミドル級絶対王者」と呼ばれていた。
ファイトスタイルとしては、狙いすまして威力の高いパンチを当てる強打型ではなく、前進しながら回転の速いパンチで攻める連打型である。 そのため攻撃時は防御がおろそかになる傾向があり、攻撃の最中に逆に相手の打撃(カウンター)を喰らう場面も少なくない。また、打撃を主体として戦うストライカーではあるが、柔術についてもある程度の技量を持つ(黒帯所持)。
BVF、IVC、UFCを歴戦し、1999年9月12日のカール・マレンコ戦でPRIDE初参戦。
2000年4月14日、日本で行われたUFC 25でUFC世界ミドル級(現ライトヘビー級)王座を巡りティト・オーティズと対戦。判定で敗れる。
2001年11月3日、PRIDE.17で新設されたPRIDEミドル級王座をかけて桜庭和志と再戦。TKOで勝利し、初代PRIDEミドル級チャンピオンとなった。回転の速いパンチと膝蹴り、強力なパウンドなど圧倒的な攻撃力を誇り、王座獲得以来5年以上に渡ってタイトルを保持した。
2006年7月1日、PRIDE無差別級グランプリ 2006 2nd ROUNDを欠場したエメリヤーエンコ・ヒョードルに代わって出場、藤田和之と対戦。体重、体格に勝る藤田を後ろに下がりながらのパンチでKOする。
2006年9月10日、PRIDE無差別級グランプリ 2006 決勝戦の準決勝では、ミルコ・クロコップとの因縁の再戦が実現する。体重を増やして臨んだせいか、序盤からベストコンディションで臨んだミルコの打撃に圧倒され、1R終了直前にミルコの左ハイキックの餌食となりPRIDEでは初めての失神KO負けを喫する。
2006年7月8日、UFC 61の会場に姿を現し、オクタゴンの中に入りUFCライトヘビー級王者のチャック・リデルとの対戦を要求した。10月21日のPRIDE.32でも大会途中に再び対戦を要求している。
2007年2月25日、PRIDE.33でダン・ヘンダーソンとミドル級タイトルマッチを行ったが、3R3分6秒にKO負けを喫し、5年余りの長きに渡って保持していたチャンピオンベルトを失った。その後、試合前に40℃もの熱があり、風邪薬を服用してまでも試合に臨んだことが発覚した。
2007年8月、UFC公式サイトにてダナ・ホワイト社長と契約を交わすシーンの一部始終が公開され、12月の大会で、UFC 25以来実に7年半振りのUFC復帰戦が決定した。
それに前後して、シュートボクセ・アカデミーからの脱退、および、ランディ・クートゥアのジムエクストリーム・クートゥアでトレーナーを務めることが決定した。
- ファンからの支持がまだ薄かった頃、ヒール役としてPRIDEのリングに君臨していた顔も持つ。また、シウバ率いるシュートボクセ・アカデミーの最大のライバルチームであるブラジリアン・トップチームのアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなどにリング上で唾を吐きかけたりと悪事を働いたこともあり、トップチームのファンからは非難が相次いだ。
- マウリシオ・ショーグンやムリーロ・ニンジャなど彼の弟弟子にあたる人間に対してはとても面倒見がよく、温厚に接する。人一倍チームメイト思いとして有名。
- カエルが大の苦手とジャンクスポーツで発言している。
- 400戦無敗の男ヒクソン・グレイシーに対して、「アイツは試合をしない」や「弱い」などの発言をしている。
- かつて3度戦った桜庭和志とは仲がよく、桜庭から受け取ったサクベルトや阪神タイガースのキャップを身につけて入場したこともある。
- 今では想像がつかないが、子供の頃はいじめられっ子で肥満体型だったらしい。父親はヴァンダレイとよく似た顔をしている。
- 総合格闘技でデビューした頃はファイトマネーなどは一切出ず、叔父から「まともな仕事を探してあげるから、もう格闘技はやめなさい。」と体と将来を案じて言われた。
- PRIDEで稼いだ賞金を元に株取引に手を出すも失敗。愛車が盗難に遭うという不幸も乗り越え、現在はWANDというオリジナルブランドを展開する実業家としての顔も持つ。
- 日本のうどんが好物であり、来日の際は毎回はなまるうどんに行き大盛り肉うどんを2杯たいらげるという。
- PRIDEの恒例イベントである「けやき広場イベント」の「チャンピオン祭り」では、自身の握手会に来てくれたファンに自分のニット帽をあげたり、参加していないファンを気遣って握手をしたりと、ファンに対するサービスは格闘家の中ではNo.1の呼び声も高い。
- 週刊少年マガジン連載中の「もう、しませんから。」の題字を作者の西本と対決した折に書き下ろしている。
青木真也との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青木 真也(あおき しんや、1983年5月9日 - )は、静岡県出身の柔術家であり総合格闘家。柔道をバックボーンとする。Team Roken→パラエストラ東京所属。
組んだ状態からの跳びつき腕十字・三角絞め・スピニングチョークなどの寝技の仕掛けの上手さから、跳関十段(とびかんじゅうだん)の異名を持つなど、現在の総合格闘技の軽量級最高峰の寝技師と呼ばれている。
東海大第一中→静岡学園高→早稲田大学と柔道部に在籍。柔道時代からさまざまな格闘技に通じ、跳びつき腕十字・脇固め・スピニングチョークなど、柔道においては特異な技の数々で勝利をものにしてきた。その結果全日本ジュニア強化選手まで進んだが、その格闘技観の違いから「極」を重視した格闘技へと活躍の場を移すことを決意。サンボと柔術、コンバットレスリング、総合格闘技などでその実力を表している。
2003年11月24日、club DEEP 4thで行なわれた82kg以下級トーナメントで優勝。
2004年10月30日、DEEP 16th IMPACTにおいて中尾受太郎と対戦。寝技を駆使し試合を優位に進めるも、スタンドの打ち合いで左ストレートをまともに食らいKO負け。
2005年1月29日、初参戦となった修斗でキース・ウィスニエフスキーに腕ひしぎ脇固めで一本勝ち。
2005年5月28日、アブダビコンバットでは、77kg未満級の2回戦でマルセロ・ガッシアと対戦、たやすくバックを許し、チョークスリーパーで一本負け。翌5月29日には無差別級の1回戦でホジャー・グレイシーと対戦。全く何もできずにアキレス腱固めで一本負け。
2005年8月20日、修斗参戦3戦目で、かつて「修斗の象徴」とも言われた桜井"マッハ"速人に判定負け。
2005年10月19日、カリフォルニア州で行われたヒクソン・グレイシー主催のブドーチャレンジ77kg未満級トーナメントに参戦。決勝でキャメロン・アールに一本勝ちし優勝を果たす。
2006年2月17日、修斗参戦5戦目にしてミドル級王者菊地昭に判定勝ち、史上最短の第5代ミドル級王者となる。
2006年3月に大学卒業後、警察官となり警察学校に入るが2ヶ月で退職し、プロ格闘家一本へ。
2006年8月26日、PRIDE武士道に初参戦、ジェイソン・ブラックを相手に三角絞めで秒殺。その試合で着用した黄色のロングスパッツもあいまって大きなインパクトを残した。
2006年10月14日、修斗でのチャンピオンカーニバルでは、ジョージ・ソテロポロスと対戦、金的攻撃による反則勝利。
2006年11月5日、PRIDE2戦目となるPRIDE武士道 -其の十三-では、クレイ・フレンチと対戦、跳び三角絞めで一本勝ち。
2006年12月31日、PRIDE男祭り 2006に参戦し、ヨアキム・ハンセンと対戦。レインボーカラーのスパッツ&マウスピースといういでたちで登場、体格差も助けとなり開始早々にグラウンドに引きずり込みフットチョークで一本勝ち。
2007年2月17日、修斗・横浜大会で菊地昭と修斗世界ミドル級チャンピオンをかけた防衛戦を行ない、三角絞めやオモプラッタを交えた絞め技、関節技でグラウンドを完全に支配するも、菊池のパウンドで若干ポイントをとられ、2-1のスプリットデシジョンで王座防衛を果たした。
2007年3月には師である今成正和が所属するDEEP GYMに自らが指導するクラスを開始させた。
2007年4月8日、PRIDE.34においてブライアン・ローアンユーと対戦。ローアンユーのパウンドや膝蹴りでダメージを負うも、冷静に下からアームバーを極め一本勝ち。
- 2003年 - アブダビコンバット 日本予選出場
- 2003年 - 全日本サンボ選手権大会 82kg級 第3位
- 2003年 - DEEPフューチャーキングトーナメント 優勝
- 2003年 - 全国体育系学生体重別選手権 81kg級 優勝
- 2004年 - イサミ杯 優勝
- 2004年 - 全日本ブラジリアン柔術オープントーナメント 優勝
- 2004年 - 何気杯 優勝
- 2004年 - 全日本サンボ選手権大会 優勝
- 2004年 - 全日本ブラジリアン柔術選手権大会 アブソリュート級 優勝
- 2004年 - ブラジリアン柔術コパアクシス紫帯メジオ級 優勝
- 2005年 - ブドーチャレンジ ミドル級トーナメント 優勝
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勝村周一朗との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 勝村 周一朗 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 基本情報 | ||||||||
| 本名 | 勝村 周一朗 | |||||||
| あだ名 | リアルタイガーマスク | |||||||
| 国籍 | ||||||||
| 出身地 | 神奈川県横浜市 |
|||||||
| 誕生日 | 1976年6月17日(31歳) | |||||||
| 所属 | 勝村道場 | |||||||
| 身長 | 172cm | |||||||
| 体重 | 64kg | |||||||
| 階級 | フェザー級(ZST)ミドル級(HERO'S) | |||||||
| スタイル | レスリング | |||||||
| テーマ曲 | ||||||||
| 総合格闘技戦績 | ||||||||
| 主戦場 | ZST、修斗、HERO'S | |||||||
| 総試合数 | 19 | |||||||
| 総勝利数 | 8 | |||||||
| (T)KO勝ち | 1 | |||||||
| 一本勝ち | 5 | |||||||
| 判定勝ち | 2 | |||||||
| その他の勝ち | 0 | |||||||
| 総敗北数 | 8 | |||||||
| (T)KO負け | 2 | |||||||
| 一本負け | 3 | |||||||
| 判定負け | 3 | |||||||
| その他の負け | 0 | |||||||
| 引き分け | 3 | |||||||
| 無効試合 | 0 | |||||||
| 主な獲得タイトル | ||||||||
| 最終更新日 | 2007/06/17 | |||||||
| 選手成績参照サイト | ||||||||
勝村 周一朗(かつむら しゅういちろう、1976年6月17日 - )は、神奈川県横浜市出身の総合格闘家。
大学卒業後は鎌倉の児童養護施設に勤務しながら格闘技を続ける。彼のニックネーム「リアルタイガーマスク」はここからきている。
アマ修斗全日本を制しプロ修斗デビュー。勝敗を繰り返しフェザー級ランカーになる。
転機が訪れたのは2004年1月24日のマルコ・ロウロ戦である。ブラジリアン柔術の達人相手に寝技で一方的に破れる。この試合の後に養護施設を退職し、格闘技一本の生活になる(現在は同じ職場に復帰している)。
2004年11月3日にZSTに初参戦。所英男に1Rギロチンチョークで完敗する。引退も考えたが現役を続行する。所英男とはその後ZSTルールでタッグを組み、変則ルールながらレミギウス・モリカビュチスから三角絞めで一本勝ちを奪う大金星を挙げた。その後はZSTに主戦場を移して順調に勝ちを重ね、所へのリベンジも成し遂げている。
2005年10月19日、カリフォルニア州で行われたヒクソン・グレイシー主催のブドーチャレンジ60kg未満級に参戦。1回戦を判定勝ちしたものの、決勝でビビアーノ・フェルナンデスに三角絞めで一本負け。
2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!に大抜擢され永田克彦と対戦。変則的な動き、飛び膝蹴りも見せるが、永田との体格差が影響したのか、最後はパウンドを連打されてのTKO負けを喫する。
2007年7月16日、HERO'Sでアレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラと対戦。右フックでダウンを奪われTKO負け。
- スリムな体型に今風のルックスながら養護施設に勤務しているという異色の格闘家である。もっとも本人はいい人ぶるのは嫌らしく、「鎌倉の偽善者」と名乗っている。
- レスリング出身ながら、あまり上をとることにこだわらず、下からの三角絞め等を得意とする。そのためか寝技での打撃ありの修斗ではいま一つなじめなかった感がある。寝技での打撃なしのZSTルールでは水を得た魚のごとく勝ちが先行し始めた。おそらくこのままZSTに定着するものと思われる。
- 鎌倉に自らのジム「勝村道場」を立ち上げ、格闘技を通して若手や子供を育成している。
アーネスト・ホーストとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーネスト・フリッツ・ホースト(Ernesto Frits Hoost、1965年7月11日 - )は、オランダ出身の元キックボクシング選手である。身長189cm、体重106.0kg。血液型A型。ボスジム所属。
1993年のK-1グランプリ第1回大会に参戦し、当時のキックボクシング界TOP2であったピーター・アーツを判定で、モーリス・スミスを左ハイキックでKOし一躍注目を浴びる。その後、老獪なテクニックとコンビネーションを駆使してK-1グランプリを1997年、1999年、2000年、2002年と4度制覇、特に1999年と2000年の両年はピーター・アーツ以来の史上2人目の連覇を成し遂げた。突出した技術の高さから、畏敬の念を込めてミスター・パーフェクトと呼ばれる。
無差別級のK-1において、ホーストは体格の面で他の強豪に比べて大きく劣っていたが、計画的なウェイトアップにより、スピードを維持したままヘビー級の体を造り上げることに成功した。ちなみに軽重量級トーナメントの「K-2 GRAND PRIX」の初代にして最後の王者である。
その完璧なまでの技術の前に対戦相手は自分の良さを出し切れず、ホーストのリズムで戦うことを余儀なくされる。老獪さばかりが目立つホーストではあるが、1996年から1997年にかけては7試合連続KO勝利という記録も残している。
4度の王座に着くなどずば抜けた戦績を残している割に人気はそれほどでもなく、ホーストがよく自身を「フォー・タイムス・チャンピオン」と連呼し実績を誇示する理由はそこにある。故アンディ・フグの知名度・人気は今でも圧倒的なのだが、ホーストはそれを「なんでみんな、アンディアンディばかりなんだ!」と嫉妬していた時期もある。現在はK-1のトップ戦線から退いているボブ・サップに2連敗しているのも、ホーストの人気が今ひとつな理由であろう。とはいえ、ホースト現役の晩年においてはK-1運営が以前にも増してショー化する中で、相対的にホーストの持つトップレベルの技術が再評価されていた。
最近は日本のメディアへの露出も増えており、日本語を目下勉強中だという。 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』では、鼻毛を抜かれたり、吉幾三の『Dream』を見事な日本語で歌い上げ、ダウンタウン達を驚かせた。また「銭形金太郎」にも、女子総合格闘技「スマックガール」所属のナナチャンチンが貧乏さんとして出演した回にゲストサポーターとして出演した。
ジャンクSPORTS、第四回「血液サラサラ選手権」優勝。
1965年7月11日、オランダ領ギアナ(現在のスリナム共和国)で生まれる。
1970年、オランダに移住。
1987年10月、ムエタイオランダ選手権大会優勝。
1988年5月、ムエタイヨーロッパ選手権大会優勝。
1988年6月、フルコンタクトヨーロッパ選手権大会(ISKA主催)優勝。
1988年6月、サバテヨーロッパ選手権大会優勝。
1988年9月、キックボクシングヨーロッパ選手権大会(WKA主催)優勝。
1989年5月、サバテ世界選手権大会優勝。
1989年10月、ムエタイ世界選手権大会優勝。
1990年1月、キックボクシング世界選手権大会(WKA主催)優勝。
1993年12月、K-2 GRAND PRIX '93 優勝。
1994年5月、K-2 GRAND PRIX '94 優勝。
1994年11月、フルコンタクト世界選手権大会(ISKA主催)優勝。
1997年11月、K-1 GRAND PRIX '97 優勝。
1999年12月、K-1 GRAND PRIX '99 優勝。
2000年12月10日、K-1 WORLD GP 2000 優勝。
2002年10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦でボブ・サップに敗北したが、セーム・シュルトの欠場により、リザーバーとして決勝戦に復活し、K-1 WORLD GP 2002 優勝。
2004年12月4日、K-1 WORLD GP 2004 決勝戦に出場。1回戦で前大会王者のレミー・ボンヤスキーに判定負けするも、ジャッジの評価に怒りを露わにした(また、同大会では敗退した選手によるK-1側へのジャッジに対する不満や抗議の声が上がった)。
2005年9月23日、K-1 WORLD GP 2005 開幕戦は持病のアトピー性皮膚炎と膝の怪我で欠場。その大会中に今後はワンマッチのみを行い、1日に数試合戦わなければならない過酷なグランプリには出場しないと宣言し、その後2006年中に引退試合を行う予定だった。
2005年12月31日に行われた、11月19日にK-1王者になったばかりのセーム・シュルトとの新旧王者対決でTKO負けを喫した。
2006年5月13日、K-1 WORLD GP 2006 in AMSTERDAMにおいてオランダでの引退試合を行なう。だが、対戦予定だったボブ・サップが契約問題のこじれから試合直前になって試合をボイコットしてしまったため、地元テレビの解説のために来場していたピーター・アーツとの対戦に急遽変更になり、判定勝ち。
2006年7月30日、K-1 WORLD GP 2006 札幌大会での発表で、9月に行われるグランプリ開幕戦を経て12月2日のグランプリ決勝大会で優勝し、「ファイブ・タイムス・チャンピオン」になった上での現役引退を目指すと宣言した。
そして、2006年12月2日、K-1 WORLD GP 2006 決勝戦に出場。1回戦では、ハリッド"ディ・ファウスト"と対戦。小柄でスピードがありパンチが得意なハリッドに対して、リーチの差や的確なタイミングのローキックを活かし、判定勝利。準決勝では2005年末にTKO負けしたセーム・シュルトと対戦し、今度は3ラウンド戦い抜いたものの、シュルトに有効な攻撃を与えることができずに判定負け。この試合を最後にミスター・パーフェクトはリングを降りた。
ミルコ・クロコップ
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ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチ(Mirko "Cro Cop" Filipović、1974年9月10日 - )は、クロアチア(旧ユーゴスラビア)出身の元警察官で、総合格闘家。クロアチア国会議員(2003年- )。血液型A-。リングネームのクロコップは、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意。K-1・PRIDEを歴戦し、現在はUFCに参戦している。
総合格闘技に転向した直後は、プロレスラーを次々と撃破した事から「プロレスラーハンター」と呼ばれていた。総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、多くのKO勝利を挙げた。
格闘技は15歳の頃よりテコンドーを始めたが一度は内戦の激化により断念。その後17歳から空手、19歳でキックボクシングに転向。
1996年3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」でK-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、ミルコ・タイガー[1]のリングネームで日本に初登場。前年GP準優勝、ジェロム・レ・バンナと対戦。後半には体格で勝るバンナに主導権を握られるが、ダウンのポイントを守りきり、辛勝ながらも判定3-0で金星を挙げた。
1996年5月6日、「K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦」に出場。準々決勝でアーネスト・ホーストと対戦。ホーストのテクニックとローキックに圧倒され、3Rに半ば戦意喪失でTKO負け。この試合以降、シカティックと決別したミルコは、しばらく日本のリングから姿を消すこととなった。
1999年4月25日、「K-1 REVENGE '99」に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たす。ミルコ"クロコップ"フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ち。
1999年6月20日、「K-1 BRAVES '99 ~グランプリへの道~」に出場。準々決勝でリッキー・ニケルソンにK-1のリングでは初となる右ハイキックで1RKO勝ち。しかし準決勝では試合巧者のジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GP開幕戦の出場権を逃す。
1999年10月3日、怪我人の発生で推薦として「K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦」に出場。マイク・ベルナルドをハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪い1RKO勝ち。当時のK-1四天王の一人を倒し、大金星を挙げた。
1999年12月5日、「K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦」に出場。準々決勝で武蔵に2RKO勝ち、準決勝でサム・グレコに2RKO勝ち。対戦相手に恵まれたこともあり(グレコは自ら放ったローキックで半ば自滅)、決勝まで駒を進めたミルコだが、武蔵戦ですでに肋骨を骨折していた。決勝では歴代王者3人が犇く激戦ブロックを制したアーネスト・ホーストと対戦し、ボディを徹底的に攻められ3RKO負けを喫する。ミルコはK-1復帰1年目にしてグランプリ準優勝を飾るが、後に当時を振り返って「あれは運がよかった」と語っている。この大会で一気にトップ選手への仲間入りを果たしたミルコは、リングネームを現在のミルコ・クロコップに変更(ターミネーターの愛称もこの頃から付けられる)。次世代を担う若手選手として注目されるようになる。
2000年3月19日、「K-1 BURNING 2000」で天田ヒロミと対戦。元暴走族と現役警察官の対決だっため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露した。試合は4RでミルコのKO勝ち。
2000年6月3日、アンディ・フグのスイスでの引退試合の相手を務める。お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに軍配はあがる。少年の頃からフグに憧れていたというミルコは、3-0の判定で敗北を宣告されながらも、母国引退となるフグを笑顔で讃えた。後の映画進出も、映画俳優を目指していたフグに影響を受けたといわれている。
2000年9月1日、「K-1 WORLD GP EUROPE 2000」にワンマッチで出場。スチュアート・グリーンに2RKO勝ち。
2000年10月9日、「K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA」に出場。準々決勝でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちするも、この試合で右足首を負傷。このトーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝戦へと駒が進めるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択し、決勝の相手マイク・ベルナルドにリベンジを許した。
2000年12月10日、「K-1 WORLD GP 2000 決勝戦」に出場。準々決勝でアーネスト・ホーストと3度目の対戦。延長まで持ち込むものの、安全運転のホーストに終始試合をリードされ、3-0で判定負け。これ以降両者の対戦は実現せず、ミルコは1勝も挙げることはできなかった。
2001年1月30日、「K-1 RISING 2001 ~四国初上陸~」で富平辰文に2RKO勝ち。3月17日の「K-1 GLADIATORS 2001」では、ピーター・アーツと対戦。序盤、ミルコはハイキックとパンチのラッシュでアーツを攻め込むも、後半アーツの膝蹴りを受けてスタミナ切れを起こし失速。クリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも2-0で判定勝利を収めた。
2001年6月16日、「K-1 WORLD GP in MELBOURNE」に出場。準々決勝で伏兵マイケル・マクドナルドに1RKO負け。相手を格下と見て、腕を回すなど余裕な態度や挑発をした上での惨敗だった。
6月のメルボルン大会で早々とGP本戦から姿を消してしまったミルコだが、2001年8月19日の「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」にて、この時期に気運が盛り上がりつつあったK-1と猪木軍との対抗戦に身を投じることとなった。猪木軍のエースとして当時絶頂期にあった藤田和之の相手として、ミルコは当初は3番手候補として名が挙げられていたが(候補筆頭はバンナだった)、最終的に対戦相手に決定。ルールは3分5Rの総合格闘技(MMA)ルール。初のMMAとなるミルコはアメリカに渡り、マルコ・ファスの道場で特訓し、決戦を迎えた。藤田の2度のタックルをかわした後、3度目のタックルに膝蹴りを合わせ藤田の額を割り、ドクターストップによるTKO勝ち。藤田は膝蹴りを受けながらもミルコからテイクダウンを奪い、サイドポジションという絶好の位置を奪っていただけに、ドクターストップという結果に会場に押し寄せていたプロレスファンからはブーイングが沸き起こった。この試合によりミルコの存在は総合格闘技家やプロレスラーの間に衝撃を与え、手応えを得たK-1は積極的に総合格闘技に参入するようになり、日本の格闘技界はボーダレス化の時代を迎えることになる。この一戦はその後のミルコだけでなく、格闘技界全体の流れを変えた一戦となった。
ミルコは総合格闘技での活躍が認められ、この年のK-1 WORLD GPの敗者復活トーナメントに推薦として出場する予定だったが、2001年9月11日の米国同時多発テロ発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念となった。ちなみにミルコの代わりに出場したマーク・ハントはGP優勝を飾っている。
8月の結果により、早速日本の総合格闘技のメジャーブランドであるPRIDEがミルコを招聘。PRIDE側は対戦相手に苦慮した結果、自薦という形で高田延彦に決定し、藤田戦と同じルールが適用された。そして2001年11月3日、「PRIDE.17」にて対戦。試合序盤で右足踵骨を骨折してしまった高田は自らリングに腰を降ろし、ミルコを手招きでグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはこれを拒否。試合はいわゆる猪木アリ状態の状態が続いたまま終わり、規定によりドローとなった。ミルコは試合後「高田はチキンだ」と激しく罵倒し、また直前の試合で対戦した藤田と比較し、「藤田は本物のファイター、高田は偽者のファイター」とも発言した。
2001年12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2001」にてプロレスラー永田裕志と総合格闘技ルールで対戦。1R21秒、左ハイキック一撃でKO勝利し、『プロレスハンター』の座を揺るぎないものにした。
2002年1月27日、「K-1 RISING 2002」に出場。K-1ルールで柳澤龍志(元パンクラス所属のプロレスラー)に1RTKO勝ち。3月3日の「K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA」では前年GP王者マーク・ハントと対戦。序盤、ミルコは3Rには左ハイキックでダウンを奪う。ハントは後半は持ち味の体格を活かしたプレッシャーで逆襲に転じるが、その反撃をクリンチワークでかわし切ったミルコは3-0の判定勝利を得た。
2002年4月28日、「PRIDE.20」に参戦。MMA4戦目にしていきなりPRIDEミドル級王者ヴァンダレイ・シウバと対戦。ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、MMA経験の浅いミルコに配慮した形となった。また両者の体重差が問題視されたが、計量時はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。試合はミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせたが、シウバもミルコから数度のテイクダウンを奪い、スタンドでも手数で上回った。結局試合は規定によりドロー。有効打ではミルコ、積極性ではシウバとなったが、試合後も勝敗を巡ってファンの間では激しい議論が繰り返され、再戦を望む声が多く聞かれた。
2002年7月14日、「K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKA」で後にGPを連覇するレミー・ボンヤスキーとK-1ルールで対戦。2RTKO勝ちし、GP本戦の切符を手に入れた。
2002年8月28日、K-1・PRIDEの交流の集大成とも言えるイベント「Dynamite!」に出場。日本のエースにしてプロレスラー最後の砦と言われた桜庭和志と対戦。ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のPRIDE特別ルールとなったが、平時における両者の体重差は実に20kg近くに及び、ミルコの勝利は明らかと言われた。試合は事前の予想通りミルコペースとなり、2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際に桜庭の顔面を蹴り上げた。これが決定打となり、桜庭のドクターストップによりミルコがTKO勝利を得た。
初制覇に期待が掛かっていた「K-1 WORLD GP 2002」にミルコは椎間板ヘルニアを理由に欠場。後日、元気にサッカーをするミルコの写真がネットに流れ、一部で物議を呼び、GP欠場はミルコがファイトマネー引き上げを要求したためとも言われたものの、ミルコは藤田戦以来、ようやく長期休暇を得ることができ、この間に長年交際してきた女性クラウディア・シューケルと結婚式を挙げた。
2002年12月31日には「INOKI BOM-BA-YE 2002」にて藤田和之とMMAルールで再戦。危なげない試合運びで判定勝ちし、返り討ちを果たす。
2003年3月30日の「K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」で当時人気絶頂にあったボブ・サップとの対戦が決定。事前情報でサップは練習不足と伝えられ、経験とパワーを兼ね備えるミルコが有利と予想されたが、当日ミルコは高熱を発し、最悪のコンディションのままでリングに上がった。試合は1R1分29秒、左ストレート一発でミルコのKO勝利。勝利直後、ミルコにしては珍しくリングサイドに駆け上がり、雄たけびを上げた。この試合が、ミルコのK-1における最後のキャリアとなる。
2003年6月8日、「PRIDE.26」からPRIDEシリーズに本格参戦。当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたヒース・ヒーリングと純正PRIDEルールで対戦し、1RTKOで勝利。試合後、ミルコはエメリヤーエンコ・ヒョードルが保持するPRIDEのヘビー級タイトルへの挑戦を宣言。なおこの試合は母国クロアチアでも当日ディレイで放送され、視聴率が70%を超えた。
2003年8月10日、「PRIDE GP 2003」でイゴール・ボブチャンチンに左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。ヘビー級タイトルへの挑戦を決定的なものにする。10月5日には「PRIDE武士道」に電撃参戦。自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、ドス・カラス・ジュニアに左ハイキックで1R46秒でKO勝利。
2003年11月9日、「PRIDE GP 2003 決勝戦」。本来ならこの大会でヒョードルとのタイトルマッチが行われるはずだったが、ヒョードルの怪我により、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと暫定王座を賭けて対戦。1Rはミルコが打撃で圧倒し、終了間際には左ハイキックがノゲイラの首の付根にヒットする決定的なチャンスもあったが、2R開始直後、初めてテイクダウンを奪われると、腕ひしぎ十字固めを取られタップアウト負け。これにより総合格闘技での無敗記録は7でストップ。ミルコのタイトル奪取への道のりは、振り出しに戻った。試合後のセレモニーで、暫定王者のベルトを与えられるノゲイラの姿を見つめながら、ミルコはリングの片隅で涙を浮かべていた。
2003年12月31日、大晦日格闘技興行戦争勃発。2001年のミルコ対藤田戦以降から続いていたK-1とPRIDEの蜜月は、この年に終わりを告げ、両者は興行や選手の引き抜きを巡って大きく対立することになる。この決裂を決定的にしたのが、ミルコのPRIDE完全移籍と言われている。ミルコは大晦日に行われた3興行のうちの、日本テレビが放送した「INOKI BOM-BA-YE 2003 馬鹿になれ 夢をもて」(TBSはK-1が主催する「K-1 Premium 2003 Dynamite!!」、フジテレビはPRIDEのDSEが主催する「PRIDE SPECIAL 2003 男祭り」をほぼ同時刻に放送)に出場予定だったが、直前になって出場をキャンセルしている。
2004年2月1日、「PRIDE.27」でロン・ウォーターマンと対戦。試合は序盤からいきなりテイクダウンを奪われるも、スタンドに復帰後すぐさま左ハイキックでダウンを奪い、最後はサッカーボールキックで1R4分37秒、ミルコのKO勝利。先の対ノゲイラ戦ではグラウンドで成す術なく敗れたミルコだが、この試合では3分間のグラウンド状態を難なくしのいだ。相手のウォーターマンはテイクダウン後の変化に乏しいものの、ミルコのグラウンド技術の向上に周囲は少なからず驚かされた。2週間後、2月15日の「PRIDE武士道 -其の弐-」では山本宜久と対戦し、1R2分12秒でKO勝利。
2004年、PRIDEヘビー級GPにエントリーし、4月25日の「PRIDE GRAND PRIX 2004 開幕戦」でケビン・ランデルマンと対戦。誰もがミルコの勝利は揺ぎ無いものと思っていたが、1R1分57秒、まさかの失神KO負けを喫する。この試合は、自分の仕上がりに自信を持つと、慢心と油断が出て敗北を喫するという彼の悪い「癖」が出た一戦であった。また、ランデルマン側はミルコの左ハイキックの弱点を研究しており、ミルコが、必殺技である左ハイキックを放つときにできる刹那の隙を見極めていたことも敗北の要因であった。ミルコは再びどん底を味わうこととなる。
2004年5月23日、「PRIDE武士道 -其の参-」で金原弘光と対戦。まさかの敗北からわずか1ヵ月後の復帰戦となる。「とにかく勝利が欲しかった」というミルコは試合開始早々からフルスロットルで攻め立てるが、金原が粘り、終盤にはアームロックや肩固めを見せるも失速。結局3-0の判定勝利を挙げたが、PRIDE3強の1人として階級も格も下の相手に判定へもつれ込む戦いぶりに、その後のミルコに不安を覚える者もいた。7月19日の「PRIDE武士道 -其の四-」では大山峻護と対戦し、1R1分00秒左アッパーでKO勝利。実力差は明らかだったが、ミルコはようやく会心の勝利を得、復活の兆しを見せた。
2004年8月15日、「PRIDE GP 2004 決勝戦」にワンマッチでエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦。経験で勝るミルコが有利と見られていたが、体格で大きく上回り、成長株の1人であるアレキサンダーの前に、ミルコの勝利を危ぶむ声も多く聞かれた。しかし、試合は1R2分9秒左ハイキックKOでミルコの圧勝。観衆はミルコの鮮烈な復活劇を歓喜で迎えた。この勝利により、ミルコはようやくPRIDEトップ戦線への返り咲きを果たした。
2004年10月31日、「PRIDE.28」で第10代パンクラス無差別級王者で元UFCヘビー級王者ジョシュ・バーネットと対決。「最後の大物」とも呼ばれたバーネットとの対決は、ファンの期待を大いに高めたが、試合は1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるタップアウトにより、消化不良のまま終わった。12月31日の「PRIDE男祭り 2004 SADAME」ではケビン・ランデルマンと再戦。1R41秒フロントチョークで一本勝ちを収める。
2005年2月20日、「PRIDE.29」でマーク・コールマンと対戦。コールマンのタックルを完璧に封じ、1R3分42秒右アッパーでKO勝ち。PRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得。6月26日には「PRIDE GP 2005 2nd ROUND」でヒョードルと同門のイブラヒム・マゴメドフと対戦し、1R3分53秒左ミドルキックでKO勝ち(この試合は、ミルコの調整のためのスパーリングのようであった)。
2005年8月28日、「PRIDE GP 2005 決勝戦」でエメリヤーエンコ・ヒョードルの持つヘビー級王座に挑戦。その間、ヒョードルは無敗で王座を守り、2004年のヘビー級GPを制して2冠を達成、絶対王者の名を欲しいままにしていた。すでにノゲイラは2度もヒョードルに完敗しており、他を見回してもヒョードルに勝てそうなファイター、果てはヒョードルの相手が務まりそうなファイターすらおらず、唯一、キックで若干のアドバンテージを持つミルコだけがヒョードルに勝てる可能性を秘めていると言われていた。正確さで勝るミルコが的確に打撃をヒットさせるが、ヒョードルもオランダのルシアン・カルビンの元で特訓を積んだ打撃で応戦。ヒョードルにルシアン・カルビンから対ミルコの秘策として伝授されたミドルへの膝上げカットを使われ、ミルコは左足の甲を痛め、以降ミルコ最大の武器でもある左ミドルキックと、それを伏線とした一撃必殺の左ハイキックを出せなくなった。また中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなる。スタミナを奪われたミルコは2R以降失速。3Rにはスタンドでもヒョードルにリードされた。ミルコはヒョードルの攻撃にガードポジションで耐え、お互い死力を尽くした戦いとなったが、ヒョードルの優位は動かず判定3-0で敗れ、王座挑戦に失敗。
2005年10月23日、「PRIDE.30」でジョシュ・バーネットと再戦。「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論を、バーネットは実践。20kg上回る体格で突進されたミルコは、打撃が思うように出せず劣勢に立たされる。スタンドでは主導権を握れなかったが、逆にグラウンドでマウントポジションを奪うなどして優位に進める。ストライカーのミルコがグラウンドで優位に立ち、本来はグラップラーのバーネットがスタンドで優位に立つという、奇妙な展開が続いたが、終盤にようやくスタンドでパンチを集めることに成功したミルコは、3-0で判定勝利を収めた。
2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005 ITADAKI」において、この年からPRIDE参戦したマーク・ハントとのストライカー頂上対決が組まれる。ミルコは入場曲を変え、シューズを履くといういつもとは違う雰囲気で登場。試合も序盤から調子が上がらず、ハントペースに。左ハイキックがヒットする場面もあったが、ハントはものともせず、バーネットの持論を実証される形でミルコは常にプレッシャーを掛け続けられた。結局スコア2-1で判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。判定ではジャッジの1人がミルコに票を入れるが、会場からはブーイングが沸き起こった。足首や甲の腫れ、高熱によるコンディション不良があったものの、この2戦で弱点をさらけ出してしまったミルコの評価は、ヒョードルとのタイトルマッチを頂点に、このまま下降線を辿るかと思われた。
2006年5月5日には「PRIDE無差別級グランプリ 2006 開幕戦」に出場し、1回戦で美濃輪育久に1Rわずか1分10秒でKO勝利。2回戦となる7月1日の「PRIDE無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND」では、日本重量級のエース吉田秀彦とメインイベントで対戦し、ローキックによるTKO勝利。決勝へと駒を進めた。
2006年9月10日、「PRIDE無差別級グランプリ 2006 FINAL ROUND」準決勝で、2002年以来熱望されていたヴァンダレイ・シウバとの再戦が決定。ミルコは、グラウンドで上を取ると容赦のないパウンドをシウバに浴びせた。スタンドに戻れば左ストレートでダウンを奪うと、右目を腫らして視界を失ったシウバに左ハイキックでKO勝利。続く決勝ではジョシュ・バーネットと三度目の対戦。序盤から一気に攻め立てダウンを奪うと、インサイドガードから鉄槌・パウンドを連打。この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットはたまらずタップアウト。アクシデントも手伝ったが、内容はミルコの一方的なものだった。バーネットは決勝の前にアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとフルラウンドの死闘を演じており、シウバと対戦したミルコとではアンフェアだという意見もあったが、試合後バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と語り、後日も「あの日のミルコには誰も勝てないよ」とミルコの勝利を素直に讃え、ファンの多くも当日のミルコの鬼神のような強さを認めている。自身の32歳の誕生日に初のタイトルを獲得し、「無冠の帝王」という通り名をついに返上する時がきたミルコは、試合後のセレモニーで涙を流した。ターミネーターと言われたミルコの男泣きする姿を見て、会場からは暖かい拍手が送られた。
2006年12月30日、米国の総合格闘技団体UFCへの参戦を表明。PRIDEのアメリカ初興行となる「PRIDE.32」や大晦日の「PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU-」への出場を予定されていたが、結局両方とも不参加となった。
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