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熟女の好きな格闘技

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ミルコ・クロコップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチMirko "Cro Cop" Filipović1974年9月10日 - )は、クロアチア(旧ユーゴスラビア)出身の元警察官で、総合格闘家。クロアチア国会議員2003年- )。血液型A-。リングネームのクロコップは、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意。K-1PRIDEを歴戦し、現在はUFCに参戦している。

総合格闘技に転向した直後は、プロレスラーを次々と撃破した事から「プロレスラーハンター」と呼ばれていた。総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、多くのKO勝利を挙げた。

格闘技は15歳の頃よりテコンドーを始めたが一度は内戦の激化により断念。その後17歳から空手、19歳でキックボクシングに転向。

1996年3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」でK-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、ミルコ・タイガー[1]のリングネームで日本に初登場。前年GP準優勝、ジェロム・レ・バンナと対戦。後半には体格で勝るバンナに主導権を握られるが、ダウンのポイントを守りきり、辛勝ながらも判定3-0で金星を挙げた。

1996年5月6日、「K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦」に出場。準々決勝でアーネスト・ホーストと対戦。ホーストのテクニックとローキックに圧倒され、3Rに半ば戦意喪失でTKO負け。この試合以降、シカティックと決別したミルコは、しばらく日本のリングから姿を消すこととなった。

1999年4月25日、「K-1 REVENGE '99」に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たす。ミルコ"クロコップ"フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ち。

1999年6月20日、「K-1 BRAVES '99 ~グランプリへの道~」に出場。準々決勝でリッキー・ニケルソンにK-1のリングでは初となる右ハイキックで1RKO勝ち。しかし準決勝では試合巧者のジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GP開幕戦の出場権を逃す。

1999年10月3日、怪我人の発生で推薦として「K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦」に出場。マイク・ベルナルドをハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪い1RKO勝ち。当時のK-1四天王の一人を倒し、大金星を挙げた。

1999年12月5日、「K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦」に出場。準々決勝で武蔵に2RKO勝ち、準決勝でサム・グレコに2RKO勝ち。対戦相手に恵まれたこともあり(グレコは自ら放ったローキックで半ば自滅)、決勝まで駒を進めたミルコだが、武蔵戦ですでに肋骨を骨折していた。決勝では歴代王者3人が犇く激戦ブロックを制したアーネスト・ホーストと対戦し、ボディを徹底的に攻められ3RKO負けを喫する。ミルコはK-1復帰1年目にしてグランプリ準優勝を飾るが、後に当時を振り返って「あれは運がよかった」と語っている。この大会で一気にトップ選手への仲間入りを果たしたミルコは、リングネームを現在のミルコ・クロコップに変更(ターミネーターの愛称もこの頃から付けられる)。次世代を担う若手選手として注目されるようになる。

2000年3月19日、「K-1 BURNING 2000」で天田ヒロミと対戦。元暴走族と現役警察官の対決だっため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露した。試合は4RでミルコのKO勝ち。

2000年6月3日アンディ・フグスイスでの引退試合の相手を務める。お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに軍配はあがる。少年の頃からフグに憧れていたというミルコは、3-0の判定で敗北を宣告されながらも、母国引退となるフグを笑顔で讃えた。後の映画進出も、映画俳優を目指していたフグに影響を受けたといわれている。

2000年9月1日、「K-1 WORLD GP EUROPE 2000」にワンマッチで出場。スチュアート・グリーンに2RKO勝ち。

2000年10月9日、「K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA」に出場。準々決勝でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちするも、この試合で右足首を負傷。このトーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝戦へと駒が進めるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択し、決勝の相手マイク・ベルナルドにリベンジを許した。

2000年12月10日、「K-1 WORLD GP 2000 決勝戦」に出場。準々決勝でアーネスト・ホーストと3度目の対戦。延長まで持ち込むものの、安全運転のホーストに終始試合をリードされ、3-0で判定負け。これ以降両者の対戦は実現せず、ミルコは1勝も挙げることはできなかった。

2001年1月30日、「K-1 RISING 2001 ~四国初上陸~」で富平辰文に2RKO勝ち。3月17日の「K-1 GLADIATORS 2001」では、ピーター・アーツと対戦。序盤、ミルコはハイキックとパンチのラッシュでアーツを攻め込むも、後半アーツの膝蹴りを受けてスタミナ切れを起こし失速。クリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも2-0で判定勝利を収めた。

2001年6月16日、「K-1 WORLD GP in MELBOURNE」に出場。準々決勝で伏兵マイケル・マクドナルドに1RKO負け。相手を格下と見て、腕を回すなど余裕な態度や挑発をした上での惨敗だった。

6月のメルボルン大会で早々とGP本戦から姿を消してしまったミルコだが、2001年8月19日の「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」にて、この時期に気運が盛り上がりつつあったK-1と猪木軍との対抗戦に身を投じることとなった。猪木軍のエースとして当時絶頂期にあった藤田和之の相手として、ミルコは当初は3番手候補として名が挙げられていたが(候補筆頭はバンナだった)、最終的に対戦相手に決定。ルールは3分5Rの総合格闘技(MMA)ルール。初のMMAとなるミルコはアメリカに渡り、マルコ・ファスの道場で特訓し、決戦を迎えた。藤田の2度のタックルをかわした後、3度目のタックルに膝蹴りを合わせ藤田の額を割り、ドクターストップによるTKO勝ち。藤田は膝蹴りを受けながらもミルコからテイクダウンを奪い、サイドポジションという絶好の位置を奪っていただけに、ドクターストップという結果に会場に押し寄せていたプロレスファンからはブーイングが沸き起こった。この試合によりミルコの存在は総合格闘技家やプロレスラーの間に衝撃を与え、手応えを得たK-1は積極的に総合格闘技に参入するようになり、日本の格闘技界はボーダレス化の時代を迎えることになる。この一戦はその後のミルコだけでなく、格闘技界全体の流れを変えた一戦となった。

ミルコは総合格闘技での活躍が認められ、この年のK-1 WORLD GPの敗者復活トーナメントに推薦として出場する予定だったが、2001年9月11日の米国同時多発テロ発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念となった。ちなみにミルコの代わりに出場したマーク・ハントはGP優勝を飾っている。

8月の結果により、早速日本の総合格闘技のメジャーブランドであるPRIDEがミルコを招聘。PRIDE側は対戦相手に苦慮した結果、自薦という形で高田延彦に決定し、藤田戦と同じルールが適用された。そして2001年11月3日、「PRIDE.17」にて対戦。試合序盤で右足踵骨を骨折してしまった高田は自らリングに腰を降ろし、ミルコを手招きでグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはこれを拒否。試合はいわゆる猪木アリ状態の状態が続いたまま終わり、規定によりドローとなった。ミルコは試合後「高田はチキンだ」と激しく罵倒し、また直前の試合で対戦した藤田と比較し、「藤田は本物のファイター、高田は偽者のファイター」とも発言した。

2001年12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2001」にてプロレスラー永田裕志と総合格闘技ルールで対戦。1R21秒、左ハイキック一撃でKO勝利し、『プロレスハンター』の座を揺るぎないものにした。

2002年1月27日、「K-1 RISING 2002」に出場。K-1ルールで柳澤龍志(元パンクラス所属のプロレスラー)に1RTKO勝ち。3月3日の「K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA」では前年GP王者マーク・ハントと対戦。序盤、ミルコは3Rには左ハイキックでダウンを奪う。ハントは後半は持ち味の体格を活かしたプレッシャーで逆襲に転じるが、その反撃をクリンチワークでかわし切ったミルコは3-0の判定勝利を得た。

2002年4月28日、「PRIDE.20」に参戦。MMA4戦目にしていきなりPRIDEミドル級王者ヴァンダレイ・シウバと対戦。ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、MMA経験の浅いミルコに配慮した形となった。また両者の体重差が問題視されたが、計量時はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。試合はミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせたが、シウバもミルコから数度のテイクダウンを奪い、スタンドでも手数で上回った。結局試合は規定によりドロー。有効打ではミルコ、積極性ではシウバとなったが、試合後も勝敗を巡ってファンの間では激しい議論が繰り返され、再戦を望む声が多く聞かれた。

2002年7月14日、「K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKA」で後にGPを連覇するレミー・ボンヤスキーとK-1ルールで対戦。2RTKO勝ちし、GP本戦の切符を手に入れた。

2002年8月28日、K-1・PRIDEの交流の集大成とも言えるイベント「Dynamite!」に出場。日本のエースにしてプロレスラー最後の砦と言われた桜庭和志と対戦。ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のPRIDE特別ルールとなったが、平時における両者の体重差は実に20kg近くに及び、ミルコの勝利は明らかと言われた。試合は事前の予想通りミルコペースとなり、2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際に桜庭の顔面を蹴り上げた。これが決定打となり、桜庭のドクターストップによりミルコがTKO勝利を得た。

初制覇に期待が掛かっていた「K-1 WORLD GP 2002」にミルコは椎間板ヘルニアを理由に欠場。後日、元気にサッカーをするミルコの写真がネットに流れ、一部で物議を呼び、GP欠場はミルコがファイトマネー引き上げを要求したためとも言われたものの、ミルコは藤田戦以来、ようやく長期休暇を得ることができ、この間に長年交際してきた女性クラウディア・シューケルと結婚式を挙げた。

2002年12月31日には「INOKI BOM-BA-YE 2002」にて藤田和之とMMAルールで再戦。危なげない試合運びで判定勝ちし、返り討ちを果たす。

2003年3月30日の「K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」で当時人気絶頂にあったボブ・サップとの対戦が決定。事前情報でサップは練習不足と伝えられ、経験とパワーを兼ね備えるミルコが有利と予想されたが、当日ミルコは高熱を発し、最悪のコンディションのままでリングに上がった。試合は1R1分29秒、左ストレート一発でミルコのKO勝利。勝利直後、ミルコにしては珍しくリングサイドに駆け上がり、雄たけびを上げた。この試合が、ミルコのK-1における最後のキャリアとなる。

2003年6月8日、「PRIDE.26」からPRIDEシリーズに本格参戦。当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたヒース・ヒーリングと純正PRIDEルールで対戦し、1RTKOで勝利。試合後、ミルコはエメリヤーエンコ・ヒョードルが保持するPRIDEのヘビー級タイトルへの挑戦を宣言。なおこの試合は母国クロアチアでも当日ディレイで放送され、視聴率が70%を超えた。

2003年8月10日、「PRIDE GP 2003」でイゴール・ボブチャンチンに左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。ヘビー級タイトルへの挑戦を決定的なものにする。10月5日には「PRIDE武士道」に電撃参戦。自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、ドス・カラス・ジュニアに左ハイキックで1R46秒でKO勝利。

2003年11月9日、「PRIDE GP 2003 決勝戦」。本来ならこの大会でヒョードルとのタイトルマッチが行われるはずだったが、ヒョードルの怪我により、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと暫定王座を賭けて対戦。1Rはミルコが打撃で圧倒し、終了間際には左ハイキックがノゲイラの首の付根にヒットする決定的なチャンスもあったが、2R開始直後、初めてテイクダウンを奪われると、腕ひしぎ十字固めを取られタップアウト負け。これにより総合格闘技での無敗記録は7でストップ。ミルコのタイトル奪取への道のりは、振り出しに戻った。試合後のセレモニーで、暫定王者のベルトを与えられるノゲイラの姿を見つめながら、ミルコはリングの片隅で涙を浮かべていた。

2003年12月31日、大晦日格闘技興行戦争勃発。2001年のミルコ対藤田戦以降から続いていたK-1とPRIDEの蜜月は、この年に終わりを告げ、両者は興行や選手の引き抜きを巡って大きく対立することになる。この決裂を決定的にしたのが、ミルコのPRIDE完全移籍と言われている。ミルコは大晦日に行われた3興行のうちの、日本テレビが放送した「INOKI BOM-BA-YE 2003 馬鹿になれ 夢をもて」(TBSはK-1が主催する「K-1 Premium 2003 Dynamite!!」、フジテレビはPRIDEのDSEが主催する「PRIDE SPECIAL 2003 男祭り」をほぼ同時刻に放送)に出場予定だったが、直前になって出場をキャンセルしている。

2004年2月1日、「PRIDE.27」でロン・ウォーターマンと対戦。試合は序盤からいきなりテイクダウンを奪われるも、スタンドに復帰後すぐさま左ハイキックでダウンを奪い、最後はサッカーボールキックで1R4分37秒、ミルコのKO勝利。先の対ノゲイラ戦ではグラウンドで成す術なく敗れたミルコだが、この試合では3分間のグラウンド状態を難なくしのいだ。相手のウォーターマンはテイクダウン後の変化に乏しいものの、ミルコのグラウンド技術の向上に周囲は少なからず驚かされた。2週間後、2月15日の「PRIDE武士道 -其の弐-」では山本宜久と対戦し、1R2分12秒でKO勝利。

2004年、PRIDEヘビー級GPにエントリーし、4月25日の「PRIDE GRAND PRIX 2004 開幕戦」でケビン・ランデルマンと対戦。誰もがミルコの勝利は揺ぎ無いものと思っていたが、1R1分57秒、まさかの失神KO負けを喫する。この試合は、自分の仕上がりに自信を持つと、慢心と油断が出て敗北を喫するという彼の悪い「癖」が出た一戦であった。また、ランデルマン側はミルコの左ハイキックの弱点を研究しており、ミルコが、必殺技である左ハイキックを放つときにできる刹那の隙を見極めていたことも敗北の要因であった。ミルコは再びどん底を味わうこととなる。

2004年5月23日、「PRIDE武士道 -其の参-」で金原弘光と対戦。まさかの敗北からわずか1ヵ月後の復帰戦となる。「とにかく勝利が欲しかった」というミルコは試合開始早々からフルスロットルで攻め立てるが、金原が粘り、終盤にはアームロックや肩固めを見せるも失速。結局3-0の判定勝利を挙げたが、PRIDE3強の1人として階級も格も下の相手に判定へもつれ込む戦いぶりに、その後のミルコに不安を覚える者もいた。7月19日の「PRIDE武士道 -其の四-」では大山峻護と対戦し、1R1分00秒左アッパーでKO勝利。実力差は明らかだったが、ミルコはようやく会心の勝利を得、復活の兆しを見せた。

2004年8月15日、「PRIDE GP 2004 決勝戦」にワンマッチでエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦。経験で勝るミルコが有利と見られていたが、体格で大きく上回り、成長株の1人であるアレキサンダーの前に、ミルコの勝利を危ぶむ声も多く聞かれた。しかし、試合は1R2分9秒左ハイキックKOでミルコの圧勝。観衆はミルコの鮮烈な復活劇を歓喜で迎えた。この勝利により、ミルコはようやくPRIDEトップ戦線への返り咲きを果たした。

2004年10月31日、「PRIDE.28」で第10代パンクラス無差別級王者で元UFCヘビー級王者ジョシュ・バーネットと対決。「最後の大物」とも呼ばれたバーネットとの対決は、ファンの期待を大いに高めたが、試合は1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるタップアウトにより、消化不良のまま終わった。12月31日の「PRIDE男祭り 2004 SADAME」ではケビン・ランデルマンと再戦。1R41秒フロントチョークで一本勝ちを収める。

2005年2月20日、「PRIDE.29」でマーク・コールマンと対戦。コールマンのタックルを完璧に封じ、1R3分42秒右アッパーでKO勝ち。PRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得。6月26日には「PRIDE GP 2005 2nd ROUND」でヒョードルと同門のイブラヒム・マゴメドフと対戦し、1R3分53秒左ミドルキックでKO勝ち(この試合は、ミルコの調整のためのスパーリングのようであった)。

2005年8月28日、「PRIDE GP 2005 決勝戦」でエメリヤーエンコ・ヒョードルの持つヘビー級王座に挑戦。その間、ヒョードルは無敗で王座を守り、2004年のヘビー級GPを制して2冠を達成、絶対王者の名を欲しいままにしていた。すでにノゲイラは2度もヒョードルに完敗しており、他を見回してもヒョードルに勝てそうなファイター、果てはヒョードルの相手が務まりそうなファイターすらおらず、唯一、キックで若干のアドバンテージを持つミルコだけがヒョードルに勝てる可能性を秘めていると言われていた。正確さで勝るミルコが的確に打撃をヒットさせるが、ヒョードルもオランダのルシアン・カルビンの元で特訓を積んだ打撃で応戦。ヒョードルにルシアン・カルビンから対ミルコの秘策として伝授されたミドルへの膝上げカットを使われ、ミルコは左足の甲を痛め、以降ミルコ最大の武器でもある左ミドルキックと、それを伏線とした一撃必殺の左ハイキックを出せなくなった。また中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなる。スタミナを奪われたミルコは2R以降失速。3Rにはスタンドでもヒョードルにリードされた。ミルコはヒョードルの攻撃にガードポジションで耐え、お互い死力を尽くした戦いとなったが、ヒョードルの優位は動かず判定3-0で敗れ、王座挑戦に失敗。

2005年10月23日、「PRIDE.30」でジョシュ・バーネットと再戦。「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論を、バーネットは実践。20kg上回る体格で突進されたミルコは、打撃が思うように出せず劣勢に立たされる。スタンドでは主導権を握れなかったが、逆にグラウンドでマウントポジションを奪うなどして優位に進める。ストライカーのミルコがグラウンドで優位に立ち、本来はグラップラーのバーネットがスタンドで優位に立つという、奇妙な展開が続いたが、終盤にようやくスタンドでパンチを集めることに成功したミルコは、3-0で判定勝利を収めた。

2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005 ITADAKI」において、この年からPRIDE参戦したマーク・ハントとのストライカー頂上対決が組まれる。ミルコは入場曲を変え、シューズを履くといういつもとは違う雰囲気で登場。試合も序盤から調子が上がらず、ハントペースに。左ハイキックがヒットする場面もあったが、ハントはものともせず、バーネットの持論を実証される形でミルコは常にプレッシャーを掛け続けられた。結局スコア2-1で判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。判定ではジャッジの1人がミルコに票を入れるが、会場からはブーイングが沸き起こった。足首や甲の腫れ、高熱によるコンディション不良があったものの、この2戦で弱点をさらけ出してしまったミルコの評価は、ヒョードルとのタイトルマッチを頂点に、このまま下降線を辿るかと思われた。

2006年5月5日には「PRIDE無差別級グランプリ 2006 開幕戦」に出場し、1回戦で美濃輪育久に1Rわずか1分10秒でKO勝利。2回戦となる7月1日の「PRIDE無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND」では、日本重量級のエース吉田秀彦とメインイベントで対戦し、ローキックによるTKO勝利。決勝へと駒を進めた。

2006年9月10日、「PRIDE無差別級グランプリ 2006 FINAL ROUND」準決勝で、2002年以来熱望されていたヴァンダレイ・シウバとの再戦が決定。ミルコは、グラウンドで上を取ると容赦のないパウンドをシウバに浴びせた。スタンドに戻れば左ストレートでダウンを奪うと、右目を腫らして視界を失ったシウバに左ハイキックでKO勝利。続く決勝ではジョシュ・バーネットと三度目の対戦。序盤から一気に攻め立てダウンを奪うと、インサイドガードから鉄槌・パウンドを連打。この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットはたまらずタップアウト。アクシデントも手伝ったが、内容はミルコの一方的なものだった。バーネットは決勝の前にアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとフルラウンドの死闘を演じており、シウバと対戦したミルコとではアンフェアだという意見もあったが、試合後バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と語り、後日も「あの日のミルコには誰も勝てないよ」とミルコの勝利を素直に讃え、ファンの多くも当日のミルコの鬼神のような強さを認めている。自身の32歳の誕生日に初のタイトルを獲得し、「無冠の帝王」という通り名をついに返上する時がきたミルコは、試合後のセレモニーで涙を流した。ターミネーターと言われたミルコの男泣きする姿を見て、会場からは暖かい拍手が送られた。

2006年12月30日、米国の総合格闘技団体UFCへの参戦を表明。PRIDEのアメリカ初興行となる「PRIDE.32」や大晦日の「PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU-」への出場を予定されていたが、結局両方とも不参加となった。

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