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ジャガー横田との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャガー横田(本名:木下 利美(きのした りみ)、旧姓:横田、1961年7月25日 - )は、日本を代表する女子プロレスラー。東京都調布市出身。身長160cm、体重57kg、B84cm、W63cm、H88cm、血液型B型。趣味は、卓球、ボウリング、パチンコ。現在、プロレスラーとしてはフリーであるが、タレントとしてはシンクバンク所属。
家計を助けるための就職の選択肢として、1977年の全日本女子プロレス第1回オーディション('77年度新人レスラー募集)で入門した。しかし、現実のプロレス界はそれほど生易しいものではなく、身長159㎝(公称は160cm)という、レスラーとしては決して恵まれているとはいえない体格がゆえに、芽が出ない場合には即解雇の危機に瀕するという常に厳しい状況が付きまとっていた。このため、練習においては常に他のレスラーより先にこれを始め、より多くのメニューをこなした上で、より後に練習場を退出するという日々を送り、酒や煙草にも手を付けず食餌摂取にも注意して、ひたすら強く自分を律する毎日であった。
1977年に16歳でデビューし、年間300試合をこなすと、持ち前の反射神経の良さと人一倍の練習量によって鍛錬された頑強でありながらバネのある肉体に加え、持ち前の格闘技センスの良さも相まって頭角をあらわした。そして1979年全日本ジュニア王座、1981年には女子プロレス界タイトルの最高峰である「WWWA世界シングル王座」をはじめとしてタイトルというタイトルを総なめにし、後にその記録を破る者もいないほどの、女子プロレス界における諸々の偉大な金字塔を打ち立てた。このため、日本における男子プロレス界の覇権者となったアントニオ猪木に倣って「女・猪木」なる異名をもって称されるほどの第一人者となった。北斗晶もまれに同様の「女・猪木」と称されることもあるが、ジャガー横田の業績に比較すると、若干見劣りする感は否めない。
総じて、レスラーとしては恵まれない体格ながら、その努力と鍛錬が導き出した気迫迫るファイティング・スタイルは、「女子プロレス界随一のストロングスタイル」と称されて幅広いファン層を持ち、現在に至るまで日本女子プロレス界の重鎮と目されている。
リング上で見せる卓越したテクニックと共に、その闘志を剥き出しにした視線による威圧感も広く知られており、対戦する選手が「あの眼をまともに見ちゃダメ。眼の迫力で圧倒される」などと萎縮したコメントを呈するなど、眼力の例は枚挙にいとまがない。
1985年の全日本女子プロレス現役引退後は、主にコーチとして従事し、アジャ・コングをはじめとして多くのスター選手を育成した。門下生のアジャらは、ジャガー横田に対して、被影響者にありがちな「先輩」・「ジャガーさん」などの呼称を用いることはなく、もっぱら教導者に対する尊称である「師匠」と呼称して修行に励んだ。後に、アジャをはじめとするその門下生達がトップレスラーとなりタイトルマッチが行われるようになると、ジャガー横田は、テレビ中継などの解説者を担当した際に、充分に活躍するまでに成長した門下生の躍動を観て涙を流す姿を見せている。
1995年には吉本の率いる「Jd'」の設立に参画、同時に現役選手登録して選手復帰した。実態は「Jd'」の専属コーチやレフェリーとして、格闘技専門の衛星チャンネル「サムライ」ではキャスターとしての活動や、選手育成のため裏方に徹することが多かったものの、自らも2つの公式戦タイトルを獲得するなど、後輩に対してマットの頂点に達することの厳しさを身をもって教えた。その後、若手のステップアップのため後進に道を譲ることを決意し、1998年12月に再度現役引退して、フリーの立場で選手、コーチ、芸能活動などを行なったほか、「横田基地」という屋号の飲食店を開業していた事も知られている。
しかし、世代を超えた全国のプロレスファンの根強い復帰要望の声に応じ、2003年再々度不死鳥のごとく現役プロレスラーとして復活し、現在では現役最古参女子レスラーとして各女子プロレス団体のリングに上がるとともに、フリーの立場でも各団体の後輩の指導に当たっている。2006年から2007年初頭にかけて産休をとっていたが、2007年3月11日の「デビュー30周年記念大会」(ホテルラフォーレ東京・御殿山ホール)で9カ月ぶりにリング復帰する運びとなった。
2005年11月3日に横浜アリーナにおいて開催された「ハッスル・マニア2005」で、ハッスル軍と戦うモンスター軍に、女豹のようなメイク&コスチュームに身を包んだジャガー横田を思わせるリング・ネームとルックスを持ち、発言の際に語尾が「~ニャ」となる特徴を持つ謎の女性『ジャガーY』が現れたが、誰もがジャガー横田本人であると認識しているにもかかわらず、ジャガー横田との因果関係は一切不明であるとされている。ピアニッシモのペシェを購入しているところを目撃されている。
東京都調布市において、4人姉妹の末子として誕生する。父親の酒癖による家庭内暴力を理由に両親が離婚(両親離婚前は瀬峰姓であったことについては、TBS「金スマ」2006年2月16日放送回にて本人が言及)。その後、東京都荒川区に転居し、再婚家庭である横田家の中で尾久西小学校・荒川第七中学校に通学して卓球に打ち込み、その才能を見出され卓球枠での淑徳高等学校に推薦入学が内定していた。しかし、家庭の経済的負担を軽減すべく就職を決意し、1977年にビューティ・ペアの試合中継の際に告知された全日本女子プロレスの第1回オーディション(77年度新人レスラー募集)をテレビ中継で知ると、両親に内緒でオーディションに応募して応募者数百人の中から見事合格し日本女子プロ入りした。その際の動機は単なる女子プロレス界に対するあこがれよりも「これなら私にも出来る」という就職の選択肢の一つとしての選択だったという。
現在では一般に英語の外来語で「シーツ」と呼ぶことの多い寝具のことを「敷布」と呼称するなど、古風な面を持ち合わせている。
2004年7月に、元リングドクターで現在は所沢胃腸病院勤務の消化器外科医、木下博勝と結婚。「究極の勝ち組結婚」として世間を賑わし、その後も数々のテレビ人気番組に夫婦で出演するなど、佐々木健介・北斗晶夫妻などと同様、本業のプロレスとは別に夫婦・家族としての側面でもお茶の間の人気者となった。 現在では、レスラーとしてまた6歳歳上の姉さん女房として夫を尻に敷いているというイメージが強いものの、実際にはかなり上手くいっている夫婦の一組として広く周知されている。
2006年5月に懐妊が判明、高齢出産であることや、子宮筋腫切除手術後に施術医から「妊娠の確率はゼロではないが、数パーセントですよ…」と宣告されたり、その後努めていた不妊治療や体外受精施術が不調であったにもかかわらず、予想に反して自然妊娠がかなったことも相まって、マスコミの間で大きな話題を呼び、好意的な反響を呼んだ。ただ、胎児の健康のために禁煙を試みるもなかなかタバコが止められないことをテレビ番組で告白するなど、好意的に見守っていた人々をやや失望させるような場面も見られた。同年11月29日(現地時間、日本では11月30日)にハワイ州ホノルル市の新生児特定集中治療室(NICU)で有名な母子専門病院カピオラニ病院において主治医ジョン・モリカワの施術により、無事自然分娩で長男:大維志(たいし)を2934グラムで出産、2007年にはリングに復帰する意向を表明している。その様子は、朝日新聞2006年12月26日朝刊の連載記事『患者を生きる』の妊娠・出産編にて特集「不屈のジャガー」(全6回)においても連載されている。
長男:大維志(たいし)に対しては早々に「ジャガー」の愛称を付け、周囲にミドルネーム込みで「木下“Jaguar”大維志」と呼称するように強要したり、夫の木下博勝が長男:大維志に対して出生初日から早速「あひるの“あ”」・「うさぎの“う”」…などと語学教育を開始したことにパンチを浴びせている。将来は、両親のどちらの遺伝子を受け継いで、研究者など知的技術職の道に進むのか、レスラーの道に進んで佐々木健介&北斗晶夫妻Jr.と対峙するのかを冗談交じりで注目されている。
結婚・出産後も生涯レスラー現役(兼)指導者を目指しており、広く活躍の期待を集めている。
- 2007年2月16日、青色申告会の「確定申告スタートキャンペーン」の「1日広報部長」に就任。夫の木下博勝とともに東京都内でトークショーを行った。席上、ジャガー横田は、藤原紀香と陣内智則の挙式に関し「美女と野獣でうちみたい、ガハハハッ」・「奥さん主導で行けばうまくいく。何かあったら夫が謝ればいい」と姉さん女房の先輩として助言した。
- タレントとして笑いを取る為に、夫へ暴力を振るうと思われるようなシーンがたびたび見られるとも指摘されている。妻が夫に暴力を振るってもドメスティックバイオレンスとみなされる事例が増えているともいわれているため、男性から女性への暴力が顕在化してタブーとされる現状であるものの、あたかもその逆なら許されるかのような風潮を招く恐れがあるので、もうしないで欲しいとの声もある。