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小川直也との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小川 直也(おがわ なおや、
1968年3月31日 - )は、東京都杉並区出身の、元柔道選手(五段)でバルセロナ五輪銀メダリスト。全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。日本中央競馬会職員であった。柔道引退後はプロレスラーに転身。身長193cm、体重115kg。血液型B型。
  • 1983年 私立八王子高校に入学。柔道を始める。
  • 1986年 明治大学経営学部に入学。全日本学生選手権で優勝。
  • 1987年 正木嘉美の代わりに急遽出場した世界柔道選手権(無差別級)で優勝。柔道を始めてからわずか4年で、19歳でのチャンピオンは史上最年少。
  • 1989年 世界柔道選手権で95kg超級、無差別級の2階級制覇。 全日本柔道選手権で初優勝。
  • 1990年 大学卒業。全日本柔道選手権を連覇。
  • 1991年 日本中央競馬会(JRA)職員として就職。世界柔道選手権(無差別級)で優勝。 全日本柔道選手権で優勝。
  • 1992年 バルセロナオリンピックで95kg超級・決勝でグルジアのハハレイシビリに敗れ、銀メダル。 全日本柔道選手権で優勝。
  • 1993年 全日本柔道選手権で優勝。大会5連覇。
  • 1995年 全日本柔道選手権で優勝(6度目)。
  • 1996年 アトランタオリンピックで95kg超級・準決勝でフランスのドゥイエに敗れ、3位決定戦でドイツのモラーに敗れ、5位に終わる。全日本柔道選手権で優勝(7度目、2度の2連覇以上の優勝は唯一)。
  • 1997年 JRA退社、フリー格闘家に転向。
  • 2006年 神奈川県茅ヶ崎市に小川道場を設立。

    柔道を始めてわずか4年で世界の頂点に立った経歴から、その格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木佐山聡の設立したUFO(Universal Fighting-Arts Organization)に入団。1997年4月12日にプロ格闘家として必殺技STO(スペース・トルネード・オガワ)をひっさげて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦で橋本真也にSTOからの裸絞め(スリーパーホールド)で勝利した。当時の橋本はIWGPのチャンピオンであり、まさに新日のエースであったため、プロレス界に大きな衝撃を与えた。実況の辻義就も「信じられませーん!!」と絶叫した。しかしその1ヵ月後の5月3日新日初の大阪ドームでの再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KOする。この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。その後は煮え切らない試合内容に終始する時期もあった。同年8月10日新日初のナゴヤドームではグレート・ムタに子ども扱いにされ敗れ、肝心の1998年4月4日の猪木の引退試合の対戦相手を決めるトーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との試合は幻となった。

    しかし、1999年1月4日、東京ドーム大会(当初、本来この大会は大仁田厚が初の新日本参戦ということで注目を集めていた大会だった)における3度目の橋本戦において、完全なセメントを小川は仕掛けた。小川は「死ぬ気があるなら(リングに)あがって来い!」と前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気がただよった。試合が始まって間もなく、橋本は小川の様子に何かを感じとったのか、小川に不可解なタックルを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。そして間に入ったレフェリーのタイガー服部を橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。そして小川が強引に橋本を倒すとマウントポジションをとり頭部に明らかに「プロレス的」ではないパンチで殴り、後頭部を踏みつけ、逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけると場内は大ブーイングに包まれた。最初から橋本のセコンドについていた藤田和之らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、リングの大混乱の中、レフェリーがいないため田中秀和リングアナは独断でゴングを鳴らした。試合結果自体は6分58秒、ノーコンテスト裁定とアナウンスされたが実際の勝敗は誰の目からも明らかだった。橋本はまともな攻撃もほとんど行えなかった。1人リングを占拠した小川は両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初飛行機ポーズといわれたが実際はUFOをイメージしたものであった)、マイクを掴むと「もう終わりかよ! おいおいおいおい、冗談じゃねーよ!」「新日本プロレスファンの皆さん、目を覚ましてください!」と吐き捨てる。その言葉は後々まで試合内容と共にプロレス界に激震を与え、議論と憶測を呼んだ。ついにはセコンド同士が乱闘を起こして村上和成が重傷を負い、終には当時引退していた長州力がリングサイドのカメラマンを蹴り倒して小川に詰め寄るなど、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。ちなみにこの時の長州が小川に放った「これがお前のやり方か?」という言葉はプロレス界の流行語となった。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げる。この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではない、ある意味では、猪木の目指す真の戦い「強いものが勝つ」=「ストロングスタイルのプロレス」であり、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であった。当時全日本プロレスのエースだった三沢光晴全日本プロレス中継で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントをする。当時の全日本プロレス中継で新日本プロレスについて語る事は異例中の異例であった。

    2000年4月7日、橋本との5度目の対戦では橋本のDDTで肩を脱臼するもSTOの6連発で橋本をKOし、引退に追い込んだ。この試合はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、その際のコピー「橋本真也34歳小川直也に負けたら即引退スペシャル」という宣伝文句は大きな波紋を呼び、平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超える反響を呼んだ。橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で圧倒的に勝ち越した。橋本は引退したしばらく後、番組の企画で復帰を願う純真な少年ファン(兄弟)の声に応え、引退宣言を撤回し再デビューしている。小川はPRIDEなどの総合格闘技戦にも参戦し、ゲーリー・グッドリッジ佐竹雅昭を圧倒的な強さで下した。

    2001年頃からは猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこと(長州力との確執は深刻だった)もあり、主戦場をZERO-ONEのリングに移し、かつての宿敵・橋本真也と「OH砲」を結成。「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)「オレごと刈れ」(ジャーマンスープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった合体技を開発し、人気を博す。

    この年の4月には当時絶対にありえないと思われていた馬場の遺伝子を持った三沢光晴とタッグマッチで戦う(小川、村上vs三沢、力皇猛)。しかし小川の意気込みは空回りに終わり、パートナーの村上が三沢にフォールを奪われた。前述通り、この2年前小川が橋本に仕掛けたシュートマッチに対して三沢は「もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」と異例のコメントを残したが、三沢はその言葉通りに、タッグマッチであることを生かし小川との接触を最小限に抑えた上で優勢な体勢を保ち続け、不利になると力皇のサポートを呼び込むなど、自らのキャリアを見せつける戦いぶりを見せ、小川は三沢に対しほとんど何もできぬままに終わってしまった。はからずも三沢と言う馬場の遺伝子とも言うべき選手が、かつて馬場が言った「シュートを超えたものがプロレス」という名言を世代を変えて実行される様な形になった。前述の通り、デビュー直後にはグレート・ムタにも子ども扱いされたこともあり、1990年代、奇しくも新日、全日でトップを張った武藤、三沢の2大スターの2人にプロレスの奥深さ、レスラーとしての「格」を完全に見せつけられる結果となった。

    2004年1月から、新しいプロレス大会「ハッスル」に登場。猪木の「1、2、3、ダーッ」の逆手を取り「3、2、1、ハッスル! ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、 親友である清原和博自民党幹事長(当時)安倍晋三氏もこのポーズを行っている。ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、翌1月から本格的にDSEが立ち上げるエンターテインメントプロレス(後にファイティング・オペラ(=ガチンコでは無いショー的な)と称される)ハッスルの記者会見が行なわれ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDE(これもDSE主催)があるが、それが終了した直後にハッスルが開催される事に興業的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長(当時)の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関しては(DSEの主催する)プロレス(はガチンコでは無いショー)なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたために、壇上に同席していた小川が食ってかかり「『プロレス』?プロレスだから何だ?手を抜いてやってもいいって事か?ああ?ふざけんじゃねえ!」とテーブルをひっくり返し、同じく同席していた橋本真也の制止が無ければ殴りかからんとする暴挙に出た為、記者会見が中止になるという騒ぎで幕を開けた。

    ハッスルの普及を目的に、同年4月からのPRIDEグランプリに参戦。ステファン・レコジャイアント・シルバを破り準決勝に進出した。そのマッチメークに、旬は過ぎた感はあったものの、日本人ヘビー級で打倒ヒョードルの幻想をわずかながら抱かせてくれる最後の存在であった為、試合は注目を浴びた。結果はエメリヤーエンコ・ヒョードルに1R54秒腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫する。勝っても負けても試合後はハッスルの宣伝に勤め、観客と共にハッスルポーズの大合唱をした。ヒョードル戦は惨敗だったが、試合後、会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが、惨敗だったにもかかわらず熱烈な小川コールを送り、感極まって涙を見せた。

    PRIDEでの敗退後、高田総統に「54秒で負けたという理由で出場停止にしたらどうだ」という事を当時のGMである笹原氏に申し付けられ、小川は54日間のハッスルへの出場停止となった。しかし、ハッスル5では、小川直也ではなく、「キャプテン・オー(のちにジュードー・オー)」としてメインに出場した。

    同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。なお、2005年6月には、同じシングルCD「勝手に侵略者」(テレビ東京系アニメ「ケロロ軍曹」の4代目エンディングテーマ曲)を岩佐真悠子とのデュエットで発売している。

    同年11月にはフォトエッセイ(写真集)「裸の選択」を発売。リング上だけではわかりえないプロレスラーの表情を伝えている。

    2005年12月31日、「PRIDE男祭り 2005」で吉田秀彦戦が行われた。この年の7月に亡くなった戦友・橋本真也の「爆勝宣言」の前奏が流れ、登場。その後は小川のオリジナルテーマが流れるが、エレベーターを降り花道に足を踏み入れた瞬間、「爆勝宣言」に曲が変わった。前奏が鳴ると共に観客の驚きの声、そして「爆勝宣言」が場内に鳴り響くと観客達は「爆勝宣言」に合わせてハシモト(またはオガワ)コールを叫んだ。曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている(この時、フジテレビ三宅アナウンサーは背景を理解しておらず、ただ単に用意された原稿を読み続けるだけであったため、小川のテーマ曲が流れているときにも「あんたの曲、聴こえてるか?」などとその背景を無視した発言をしている)。試合は吉田に腕ひしぎ十字固めでレフェリーストップ負けを喫してしまったが、試合後のリング上、マイクで、実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した(試合中骨が折れる音をマイクが拾っている)。それを堪えながら、誰にも気付かれないように試合をしていたことを知った観客や視聴者は驚きの声を上げた。最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、「PRIDE男祭り 2005」を締めた。このことに関しては吉田も後のインタビューで、自分ならばあのような状態では戦えないと語っており小川の力と根性に対しては一定の理解を示した。ちなみに吉田のインタビュー中に小川は退場する途中でもハッスルをしている。また小川は吉田に対しては後のインタビューで、あいつは勝ち負けが全てだが、頑張っているあいつの人生についても認めているよと理解していた。

    なお、小川が橋本と「ハッスル」を立ち上げる際に、2人で2003年12月31日男祭りでPRIDEに乗りこんでいる。

    現在ハッスルは成功しつつあり、PRIDE参戦も吉田戦で一区切り付いた感があるため、小川自身、総合格闘技路線からの撤退を示唆している。

    2007年6月、ハッスルを一時的に離脱することが明らかとなったが、6月29日に開催されたアントニオ猪木の新団体イノキ・ゲノム・フェデレーション旗揚げ戦「闘今 BOM-BA-YE」に参戦。マーク・コールマンに6分44秒 スリーパーホールドで快勝してその存在感を存分にアピールした。

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